ぶんか‐ざい ブンクヮ‥【文化財】
〘名〙①文化活動によってつくり出された事物・事象で文化的価値を有するもの。
②特に、文化財保護法の定める有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物、伝統的建造物群の総称。
- 小学館 精選版 日本国語大辞典
2025/8/6追記: 区議が学校名を明らかにしたので追記した。
桃園橋親柱と橋名板は無事保存された
桃園川に架かっていた桃園橋(東京都中野区中央)は、2021年に中野通り拡幅のため撤去された。橋の親柱と、親柱に付いていた4枚のプレート(橋名板、銘板)が無事に移設されたことを伝えるツイートを見た。
2021年に撤去された桃園橋が復活しました。
— nama(暗渠マニアックス 吉村生) (@nama_kaeru) April 19, 2025
薄汚れていた親柱は、ピカピカに磨き上げられて綺麗になっていました。開渠の橋、暗渠の橋、そして今年からは桃園川の存在を語り伝える展示物の橋として、第3の人生を開始することになります。
お知らせくださった関係者の方に、心からの感謝を。 pic.twitter.com/lQNmkHbrUc
投稿に気がついた翌日、現地に行って見せてもらった。

橋の四隅に4本あった御影石の親柱のうち、橋名板を付けたまま保存されたのは上流左岸(北西)のものだ。私たちのサークルの冊子『桃園橋の歴史』(下記PR参照)表紙の写真もこの親柱だ。親柱の傍らに中野区教育委員会の文化財表示板が設置され、残りの3枚の銘板はその脚の部分に並べて掲示された。
文化財表示板の文面は次の通り。
桃園橋の親柱
この親柱(昭和十一年(一九三六)完成)は、桃園川にかかっていた桃園橋の四隅に設置されていた親柱の一基です。桃園川に蓋がされ、暗渠となった後も、この親柱などは長らく現地に残されていましたが、令和三年(二〇二一)、中野通りの拡幅工事に伴い、すべて撤去されました。
現在の中野三丁目の辺りには、江戸時代(八代将軍徳川吉宗の時代)に桃園がつくられました。鷹狩りをおこなった吉宗が、この地の見晴らしを気に入り、紅白の桃の木を植えさせたことによります。当初、将軍や家臣が訪れていた桃園は、のちに庶民にも開放され、花見の風習が広まるきっかけの一つとなりました。
桃園があったことにちなみ、かつては町名などに「桃園」の文字が使われていましたが、今では学校名などにわずかに残るのみです。そのため、この親柱は区内の歴史を伝える数少ないものの一つです。
令和七年三月
中野区教育委員会

場所は小学校の敷地内、校長室の前だ。この小学校の先生によると、移設について「中野区のほうから要請があった」とのこと。
「児童の地域歴史学習に役立つ」
私たちが冊子『桃園橋の歴史』を作成した2021年には、桃園橋親柱などは「保存の可能性を検討」の段階だった。地域住民が保存を働きかけ、中野区議会で共産党と立憲民主党の議員が質問したあと、2024年度予算で親柱とプレートの保存が決まった。2024/2/14中野区議会本会議のやり取りによると、保存場所は桃園区民活動センターが予定されていたようだ。しかし実際は小学校に移設された。
2025/4/25(金)夜、私たちはそのあたりの事情と設置日をメールで中野区に照会した。週明け4/28(月)午前に区民部文化財担当からメールで回答があった。早いな。
それによると「桃園橋親柱の移設は3月27日、説明板の設置は3月31日」。2025/3/27と3/31、つまり、2024年度末ギリギリに設置されたということだ。
また「当初は桃園区民活動センターの敷地内への移設を目指していましたが、調整していく過程で、より元の場所に近い場所であることや、児童の地域歴史学習に役立つという観点から、当該地に移設することとなりました」という。
「児童の地域歴史学習に役立つ」ので、地域の文化財を小学校で保存。素晴らしい。もしかしたら中野区は本当に、地域の歴史や文化に目を向けるようになったのかもしれない。
2025/8/6追記: 移設先は桃花小
このブログを書いたさい、学校に迷惑をかける可能性を懸念して移設先を明記しなかったが、2025/8/6区議がツイッターで中野区立桃花小学校である旨を明らかにしたので追記する。
最終的に桃花小学校に保存が決まった #桃園橋 の親柱。他党はもとより我が会派の中でも残す派は皆無でしたが、会派内は最終的に「残すべき」という桃園エリア担当の私の主張を飲んでいただく形となり、議場にて残して欲しいと訴えました。その方向で中野区も動いて頂き、会派にも区にも感謝致します。 pic.twitter.com/ba0f8TuTUl
— 杉山司 中野区議会議員 (@sugiyama0328) August 6, 2025
(2025/8/6追記ここまで)
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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで、2021年に冊子を作った。東京都中野区の桃園橋について、江戸時代に木橋が架けられ、1936 (昭和11) 年に鋼鉄桁橋に架け替えられ、その85年後に撤去工事に至る歴史を調査して記した。写真と図を多数収録。ひとつの橋が近世以降の地域の歴史と強く関わってきたことがわかる。架橋の時期や橋の大きさ、建設の状況なども、この冊子の中で詳細に考証している。
Orangkucing Lab Journal 猫人研究所雑誌
創刊号 2021年8月号 400円(税込) 64p ; A5
『桃園橋の歴史』
冊子のダイジェスト(A4裏表4つ折のzine)を無料で公開している☟。
なお冊子は下記ブログ記事を大幅に加筆した内容となっている。
訂正 創刊号p.50の写真は中野新橋付近から神田川下流を望むものでした (中野区第二土地区画整理組合 編 (1942)『整地誌』の「整理前・組合事務所前ヨリ東方ヲ望ム」と同一写真。同組合事務所の住所は奥付より東京市中野区道玄町36番地 (現在の東京都中野区本町3-2))
2025/4/28 黒絵 魚 記