中野ミニ知識: 中野の象 ☜ 江戸時代にベトナムから連れてこられた象の悲惨な末路

どうぶつ‐あいご【動物愛護】

〘名〙 動物を愛し、保護すること。
*異国膝栗毛(1928)〈近藤浩一路〉一二
「動物愛護ドウブツアイゴの国はさすがに違ってゐる」
- 小学館 精選版 日本国語大辞典

犬と象

東京都中野区の中学生が郷土の勉強をした教材(財団法人中野区教育振興会(2011)『平成23年度中学校社会科副読本 我が街中野』)が手元にある。歴史について比較的くわしい。江戸時代の中野を調べるヒントとして5つあげてあるうち、3つが水利、商工業、近郊農業、残り2つが犬囲い・桃園、それから象という、動物関連だ。ただし、象については「1741(享保元)年中野に象がやってくる」としか書いていない。詳細を知りたくて調べた生徒は、この象がかわいそうな目に遭ったことがわかったはずだ。

山崎記念中野区立歴史民俗資料館(2021)『常設展示図録 武蔵野における中野の風土と人びとのくらし』は、見開き2ページで「中野の象」をあたりさわりなく説明している。1728年に中国商人が将軍吉宗に献上するためベトナムからひとつがいの象を長崎に連れてきた。雌は長崎で死んだ。雄は翌年2カ月あまりかけて江戸に着き将軍に献上され、浜御殿(現在の東京都中央区浜離宮庭園)で飼育されたのち、1741年4月「中野村の源助に養育金があたえられ、本郷村成願寺裏手あたりの象小屋で飼育され」、翌年の12月に病死し、鼻の皮付きの頭骨と象牙がのちに源助の子孫から宝仙寺に譲渡された。

中野の象

事情は、石坂昌三(1992)『象の旅:長崎から江戸へ』新潮社 がくわしい。吉宗は献上の年と翌年に計3回象を見ただけで関心を失っている。象は浜御殿で発情期に暴れて飼育係を死なせ、餌代が負担になっていた吉宗は象を持て余し、象の糞を麻疹と疱瘡の薬として荒稼ぎしていた中野村の百姓源助に貸与した。源助は象小屋を建て、象を見世物にしたが翌年には飽きられ、草深く寂しかった中野村への客足は途絶えた。源助はろくに餌を与えず、象は冬を越せずに餓死・凍死による最期を遂げた。なお頭骨と象牙は米軍の爆撃で焼け、宝仙寺にあるのは片方の牙の炭化した残骸だそうだ。

象小屋跡。東京都中野区本町2丁目、2020/1/16撮影

動物愛護という言葉もない時代とはいえ……。

そして象の来日より数十年前、犬公方綱吉の思いつきで中野や大久保、四谷にも設置された広大な犬囲いは、次の将軍の代になるとあっさり廃止されている。収容されていたたくさんの犬はどうなったのだろうか。

中野区役所旧庁舎から新庁舎に移された犬囲いの犬の像(手前)と新庁舎に掲げられた憲法擁護のバナー。東京都中野区中野4丁目、2024/5/20撮影

注† 非公開。ただし、一部分が横山隆一記念まんが館(高知市)に所蔵されている(出典: 東京新聞アーカイブ)

[PR]

少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで、2021年に冊子を作った。東京都中野区の桃園橋について、江戸時代に木橋が架けられ、1936 (昭和11) 年に鋼鉄桁橋に架け替えられ、その85年後に撤去工事に至る歴史を調査して記した。中野区提供の写真4枚と東京都下水道局から情報公開の図面その他の写真と図を多数収録。ひとつの橋が近世以降の地域の歴史と強く関わってきたことがわかる。架橋の時期や橋の大きさ、建設の状況なども、この冊子の中で詳細に考証している。

この冊子の最初の章で、桃園橋が最初は木橋で犬囲い時代の地図に記されていることから、江戸の野犬を中野に運ぶ犬籠が通ったと考察している。よかったら買ってね☟。

Orangkucing Lab Journal 猫人研究所雑誌
創刊号 2021年8月号 400円(税込) 64p ; A5
『桃園橋の歴史』

冊子のダイジェスト(A4裏表4つ折のzine)を無料で公開している☟。

なお冊子は下記ブログ記事を大幅に加筆した内容となっている。

2024/6/7 黒絵 魚

【PR】