大正時代から山の手地域は人口が急増しました。そのため水道の敷設が急務となり荒玉水道が敷設されました。これは世田谷区砧から多摩川の水を引いて中野・杉並・豊島・板橋・練馬・北区に水道供給をするためのものでした。
(中野区ホームページ 「野方配水塔」 )
荒玉水道は、1925(大正14)年に荒玉水道町村組合が設立され、1928(昭和3)年に営業給水を開始したが、4年後の1932年に東京市水道に統合された†。荒玉という名は、玉川(=多摩川)からの水道を荒川流域まで引き、荒川からの水道と合わせて東京西北部の水需要に応ずる構想に基づく¶。
† 真板道夫「荒玉水道物語」, 日本水道協会『水道協会雑誌』1996年7月号
¶ 窪田陽一ほか(2005)『大谷口配水塔の設計の過程と技術的特徴』土木史研究 論文集, vol.24, p.78
その、100年ちかく前ほんの短期間だけ存在した水道事業体の痕跡が、街のなかにのこっている。
荒玉水道と野方配水塔
東京都中野区江古田1丁目に野方配水塔(国登録有形文化財、2010年2月登録)がある。荒玉水道の水を貯め一帯の地域に給水するため1929年に建てられた。
野方配水塔はこれらの地域に配水するために昭和4年(1929)に建てられました。高さ約34メートル・径約18メートルの円筒形の塔は約2,000トンの水を貯水することができます。各戸への配水はこの塔の中に水を溜めて水圧による自然降下によって行うものでした。現在はその役目を終え、地域のランドマークとして、また東京の都市形成の過程を示す遺構として重要なものとなっています。
(前掲、中野区ホームページ )
荒玉水道のマンホール蓋
「荒玉水道‡」「泥吐室」と右横書きで記された蓋が、中野区沼袋の区道にありまだ現役である。
‡ 「道」の字は古字「辵首」で記されている
そのほか、荒玉水道のマークが刻まれた蓋も、道路や私有地にある。
下の量水器の蓋は最近まで残っていたが、この写真を撮った直後ぐらいに撤去され現存しない。
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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで、2021年に冊子を作った。東京都中野区の桃園橋について、江戸時代に木橋が架けられ、1936 (昭和11) 年に鋼鉄桁橋に架け替えられ、その85年後に撤去工事に至る歴史を調査して記した。中野区提供の写真4枚と東京都下水道局から情報公開の図面その他の写真と図を多数収録。
ひとつの橋が近世以降の地域の歴史と強く関わってきたことがわかる。架橋の時期や橋の大きさ、建設の状況なども、この冊子の中で詳細に考証している。よかったら買ってね☟。
Orangkucing Lab Journal 猫人研究所雑誌
創刊号 2021年8月号 400円(税込) 64p ; A5
『桃園橋の歴史』
冊子のダイジェスト(A4裏表4つ折のzine)を無料で公開している☟。
なお冊子は下記ブログ記事を大幅に加筆した内容となっている。
2024/2/23 黒絵 魚 記