中野ミニ知識: 賀川豊彦像 ☜中野総合病院前から消えた銅像のゆくえ

かがわとよひこ【賀川豊彦

(1888〜1960)牧師。兵庫県生まれ。神戸の貧民街で伝道をはじめ、その後、労働運動・農民組合・生協活動の指導に当たる。自伝的小説に「死線を越えて」がある。
大辞林 第三版

賀川豊彦

先日、2021年に私たちが出した『桃園橋の歴史』を読んだかたから、この冊子には書かれてないが、桃園川沿いの中野総合病院前に以前あった賀川豊彦銅像は今どこにあるのだろうかと聞かれた。むかしそのかたの父親が世話になった関係で、没後60数年経ったいまも毎朝、賀川に水とごはんを供えるほど敬愛しているという。

中野総合病院、現在の正式名称は東京医療生活協同組合新渡戸記念中野総合病院(東京都中野区中央4丁目)のホームページによると、同病院は

新渡戸稲造博士・故賀川豊彦氏らにより昭和7年(1932年)「東京医療利用組合」として創立された、日本で最初の組合病院です。

という。

賀川豊彦像は、中野総合病院のいまは暗渠となった桃園川の向こう岸、中野区立桃園川公園にあった。

桃園川公園は、中野区の区議会への報告によると、2011年夏に廃止された。1966年から無償で借り受けていた公園用地を病院に返還するためという。像は公園撤去とともに姿を消した。

2011年6月28日中野区議会建設委員会資料「桃園川公園の廃止について」より

残念な結末

調べると像の行方はわかった。墨威宏『銅像歴史散歩』ちくま新書, 2016年. という本に顛末が書かれている。

胸像について情報を寄せてくれた賀川豊彦記念松沢資料館(東京都世田谷区)の杉浦秀典副館長に調べてもらったところ、中野総合病院が賀川の遺族の了解を得た上で業者に引き取らせ既に処分したと分かった(墨威宏『銅像歴史散歩』)。

「失われた東京都中野区の賀川豊彦の胸像」墨威宏『銅像歴史散歩』より

賀川は海外で人気が高く、ガンジーシュバイツァーとともに20世紀の世界3大聖人と称され、ノーベル平和賞に3回、ノーベル文学賞に2回候補となったという。1967年設置の像の銘文に、病院の「創業当時の苦難を偲び先生の御遺徳を敬慕する」とあったそうだが、著者の墨は〈歴史教科書に名前が載る日本人初のノーベル文学賞候補でさえ、「創業当時の苦難」を知る人々がいなくなると、こんなものだ〉と皮肉っている。

像の行方を尋ねた人に残念な結果を伝えた。彼女は2週間くらいしてありがとうと言って、缶入りのクリスマスのクッキーをお礼にくれた。

新渡戸記念中野総合病院。東京都中野区中央4丁目、2024/1/16撮影

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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで、2021年に冊子を作った。東京都中野区の桃園橋について、江戸時代に木橋が架けられ、1936 (昭和11) 年に鋼鉄桁橋に架け替えられ、その85年後に撤去工事に至る歴史を調査して記した。中野区から提供の写真4枚と東京都下水道局から情報公開の図面その他の写真と図を多数収録。

読んでくれた人の感想はおおむね「橋ひとつのことをよくこんなにたくさん調べましたね!」という感じです。とはいえ、ひとつの橋が近世以降の地域の歴史と強く関わってきたこともわかったから記してある。

架橋の時期や橋の大きさ、建設の状況なども、この冊子の中で詳細に考証している。よかったら買ってね☟。

Orangkucing Lab Journal 猫人研究所雑誌
創刊号 2021年8月号 400円(税込) 64p ; A5
『桃園橋の歴史』

冊子のダイジェスト(A4裏表4つ折のzine)を無料で公開している☟。

なお冊子は下記ブログ記事を大幅に加筆した内容となっている。

2024/1/16 黒絵 魚

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