中野ミニ知識: 桃園橋 ☜最後の橋はメートル法で作られた

桃園橋 (かつて東京都中野区中央4-5丁目にあった)

江戸時代から2021年まで

現在桃園川と呼ばれる川の、現在JR中野駅の南側に相当する場所には、江戸中期には橋があった。将軍徳川吉宗が架けさせた小さい橋は、長さ幅とも2間(約3.6メートル)ほどだった。その後、1916(大正5)年ごろ架けられた木橋の桃園橋は延長3間、幅員9尺だった。

そのあとで桃園橋はコンクリートに架け替えられたが、延長3間、幅員20尺注1)と、やはり大きさは尺貫法で記録されている。コンクリ橋になった時期は、各種資料から1925(大正14)年ごろと推測される。

1936(昭和11)年、桃園橋は最後に「鋼鉄桁橋」に架け替えられる。東京都下水道局が情報公開した橋の撤去工事の契約書にあった平面図や断面図をみると、この最後の橋はメートル法で設計、建設されている。延長7.376メートル、幅員15メートルちょうどだった注2)

桃園橋は、桃園川が暗渠になって橋の機能を喪失したのちも残り、街の風景として親しまれたが、2021年、中野通りの拡幅のため撤去された。

1) 1919(大正8)年の道路構造令は、桃園橋の路線について「有効幅員は3間(18尺)以上と為すべし」と定めた。
2) 当時、中野通りを「六間道路」と呼ぶことがあった(6間=36尺≒10.9m)。1921(大正10)年の度量衡法がメートル法を基本と定めたが、道路構造令は1958(昭和33)年まで尺貫法のままだった。なお、中野通りを北上した囲町にあった軍事施設の陸軍は、メートル法を採用していた。

桃園橋と中野通り。中野五差路を望む。東京都中野区、2021/3/30撮影

現在

中野区議会でのやりとりによれば、2023年現在、区は桃園橋の親柱に取りつけられていた橋名などのプレートについては保存する方針だ。桃園川緑道や建設中の中野駅西口「桃園広場」などで親柱とともに展示するよう求めている区議もいる。

最近、下の冊子『桃園橋の歴史』の表紙にある桃園橋の写真を「いいね」と言ってくださる人がいたので、改めて見てみて、中野通りに桃園橋が残っていたありし日の様子はもうにどと撮れないのだから、移りゆく街の光景はあるうちに見ておくべきだし写真に残しておくべきだと思った。そういう思いを新たにした。

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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで、2021年に冊子を作った。東京都中野区の桃園橋について、江戸時代に木橋が架けられ、1936 (昭和11) 年に鋼鉄桁橋に架け替えられ、その85年後に撤去工事に至る歴史を調査して記した。中野区から提供の写真4枚と東京都下水道局から情報公開の図面その他の写真と図を多数収録。

読んでくれた人の感想はおおむね「橋ひとつのことをよくこんなにたくさん調べましたね!」という感じです。とはいえ、ひとつの橋が近世以降の地域の歴史と強く関わってきたこともわかったから記してある。

架橋の時期や橋の大きさ、建設の状況なども、この冊子の中で詳細に考証している。よかったら買ってね☟。

Orangkucing Lab Journal 猫人研究所雑誌
創刊号 2021年8月号 400円(税込) 64p ; A5
『桃園橋の歴史』

冊子のダイジェスト(A4裏表4つ折のzine)を無料で公開している☟。

なお冊子は下記ブログ記事を大幅に加筆した内容となっている。

2023/11/15 黒絵 魚

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