キリスト教英語ミニ知識: sin ☜ メサイア(ヘンデル)とマタイ受難曲(バッハ)の罪は同じだろうか

sin

1〔神学〕神の掟に背くこと;(道徳・宗教上の)罪,罪悪,罪業,罪障;悪事 
- 研究社『新英和辞典』第6版 (2002)
1. a. An act which is regarded as a transgression of the divine law and an offence against God; a violation (esp. wilful or deliberate) of some religious or moral principle.
- "Oxford English Dictionary 2nd Edition" (1989)

OEDによると、罪を意味する英語のsin はドイツ語のSünde などと同根で、それらの語幹はおそらくラテン語の sons, sont-is (guilty) と関連がある。

メサイアのsin

2024年3月にヘンデルメサイア」(聖学院メサイア合唱団演奏会、長岡聡季指揮)を聴きに東京都北区の聖学院講堂にいった。通して聴いたのは初めてで、もらったパンフレットに全曲の歌詞(日本語訳つき)が掲載されていて歌詞を確認しながら聴けてありがたい。

キリスト受難の場面でコーラスが次のように歌っていた。

Behold the Lamb of God,
that taketh away the sin of the world.
見よ、世の罪を取り除く神の子羊を。
- ヘンデルメサイア」、第16回聖学院メサイア合唱団演奏会パンフレット(2024)より。次の引用も同じ

またコーラスは、イエスの復活のあとこのように歌う。

For as in Adam all die,
even so in Christ shall all be made alive.
アダムによってすべての人が死ぬことになったように、
キリストによってすべての人が生かされる事になる。
- ヘンデルメサイア」より

下の[PR]で挙げたキンドル本(無料で試し読みできる部分)でも書いたのだが、私はキリスト教でいう罪がよくわからない。

キリスト教には、アダムが神にそむいた原罪がイエスの刑死により贖われたという類の、罪とその贖いについての教義がある。イクトゥス・ラボによると、この教義(贖罪論)には諸説あって、あるひとつの教会であってもその教会員全員で罪とは何か、贖いとは何かについて統一した見解があるわけではないという。

ヘンデルメサイア」では、アダムのせいで人が死ななければならなくなったことが原罪であるとされているように思える。キリストにより人が死から救われたことが、メサイア(1742年初演)の第3部のテーマだ。これは、上掲のイクトゥス・ラボのウェブページの分類によれば、「刑罰代償説」に近い。

マタイ受難曲のSünde

その少し前2024年2月に、昨年まで中野バプテスト教会の協力牧師だった、オペラ歌手でもある稲垣俊也牧師の「春待ちコンサート」(お茶の水クリスチャンセンタービル、東京都千代田区)を聴きにいった。ピアノ演奏でさまざまな時代・場所の曲を歌った。

そのなかに、バッハ「マタイ受難曲」BWV244第57曲(旧全集の番号は66)のアリア(バス)「来たれ甘美なる十字架よ」があった。稲垣牧師は日本語で歌ってくれたのだが、メロディーが素晴らしすぎたため、歌詞が全く頭に入ってこなかった。グスタフ・レオンハルト指揮(1989)によるバッハ「マタイ受難曲(全曲)」を購入して聴いた。

ルター訳ドイツ語聖書を元にしているバッハのマタイ受難曲(1727年初演)もSünde (罪) が出てくる。何度も出てくる。イエスの死が贖罪とされるのはメサイアと同じだ。人の罪を贖うため罪なくして殺される。しかしメサイアのsin とは少し違うように思えた。

たしかにドイツ語のSündeの方が意味が広く、英語でいう一般的なoffense (違反、罪) やcrime (犯罪) の意も包含している。

Sünde

1) (eccl.) sin; 2) sin, offence, crime
- ブロックハウス『現代独英辞典 (縮刷復刻版)』駿河台出版社(1981)

だけど理由はそれだけだろうか。たとえば次の歌詞。

Buß und Reu
Knirscht das Sündenherz entzwei,
悔いの悲しみは、
罪の心を千々にさいなむ。
- バッハ「マタイ受難曲」 第6曲 アリア(アルト)(旧全集の番号は10)。グスタフ・レオンハルト指揮(1989)「バッハ: マタイ受難曲(全曲)」BMG JAPAN. 歌詞カードより。以下同じ

これは死にゆくイエスに対する感情を歌ったアリアだ。「罪の心」は後悔に対応している。ここの罪は人の原罪や人が死ななければならなくなったことを意味しているのではなさそうだ。罪の心。悔恨の念はこのあとも繰り返し歌われる。

Die Unschuld muß hier schuldig sterben,
Das gehet meiner Seele nah;
咎なき者ここに咎を負わされて死にゆく。
その痛さにわが魂はえぐらるなり。
- バッハ「マタイ受難曲」第59曲 レチタティーヴォ・アコンパニャート(アルト)(旧全集の番号は69)より

そして最後の方の次の歌詞。

Die Müh ist aus, die unsre Sünden ihm gemacht.
われら罪咎ゆえに主に負わせまつりし労苦は終わりぬ。
- バッハ「マタイ受難曲」第67曲レチタティーヴォ・アコンパニャート(独唱)+合唱(旧全集の番号は77)より

なんだろう、これは。私たちの罪のゆえにイエスを苦しめた。繰り返し述べられる悔恨や哀切と合わせると、私たちがイエスを、罪なき人を死なせたこと、見殺しにしたことが罪であるかのように、現代人の私にはきこえるのだ。

だとすると、これは上掲のイクトゥス・ラボのウェブページの分類で、「スケープゴート説」に近いように思える。

マタイ受難曲は、弟子たちがイエスに香油を注ぐ女をとがめたこと、起きているようにと言われたのに眠ってしまったこと、イエスが逮捕されたらみな逃げてしまったことなどをしつこいほど描写する。そのうえで、愛する人が罪なく殺されるのに、一緒にずっと起きていてさしあげたい、重い十字架は運んでさしあげたい、もしその場に自分がいたならば、といった心の痛み、痛切な悔いが美しい各アリアで歌いあげられる。

だがどうなんだろう。

もしまた同じことが起きればそのときとおなじように、馬鹿ははしゃいだり冷笑したり権力におもねったりするだろうし、たくさんの少し利口な人はただ見ているか、見ないふりをするんだろう。

たとえばガザの惨状に対する多くの人の態度を見ると、そういう気がしてならない。もちろん自分も含めて。

追記: 幼時の「罪」に対する違和感

(2024/6/4) 思い出したことがあるので追記する。小学2年のころ日本基督教団のとある関東地方の教会に行っていて、教会学校でよく歌った讃美歌があった。「わたしたちの罪のため十字架にかかった主イエスさま」で始まる歌で、検索すると「こどもさんびか38番」という歌であるらしい(洗足教会HPによる)。

小3になるさい引越した先の教会が合わなかったほかに、今思えば「わたしたちの罪のため」が理解できなかったことが、その後私が教会から離れた理由のひとつだったと思う。解釈の余地があるようなことは誰も教えてくれなかったから。(追記ここまで)

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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで書いたエッセイです。東京・中野駅に近い、古民家があるバプテスト派の教会で、まだ洗礼を受けるでもなく教会員になるでもなく過ごした日々のあれこれや、キリスト教的な英語の話題をまとめました。よかったら買ってね☟。

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2024/6/1 黒絵 魚

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