キリスト教英語ミニ知識: doxology ☜ 頌栄

doxology (頌栄)

主の祈り

日本のプロテスタントの多くの教会で唱えられる "主の祈り" で下のほうの2行 (下線部) が気になる。

天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来らせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

プロテスタント1880年文語訳 — 出典: 日本基督教団讃美歌委員会編 (1997)『讃美歌21』, p.148 (下線は筆者)

お祈りの言葉なのに「み国」ではなくただの「国」があるのには違和感があるし、「ちからと栄えとが限りなく神のもの」という件については、クリスチャン的にはあたり前で、改めてここでいう必要があるのかという気がする。

"主の祈り" は、公式のお祈りの言葉だ。「どうやって祈ればいいの?」とイエスに問うたら教えてくれたと、マタイによる福音書6:9-13、ルカによる福音書11:2-4 に記されている。ところが、実は、これら2つの福音書注1)のどちらにも、下線部に相当する文言は書いてない注2)

1) ただし、エラスムス (Desiderius Erasmus, 1466?-1536) 編纂のギリシャ語新約とこれを底本とした翻訳聖書には、下線部に相当する文言がある。たとえば、英語聖書 King James Version (1611) の Matthew6:13 は "And lead us not into temptation, but deliver us from evil: For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen." となっている (thine は yours の古語)。
2) カトリック教会、聖公会の公式のお祈りの言葉にも下線部に相当する部分はなかった。しかし、2000年に日本聖公会カトリック教会共通口語訳を作った際に「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。」が入った。一方、正教会は、下線部に相当する文言を司祭が高声で朗誦するが、司祭がいない場合は省略する。

頌栄

原真和注3)によると、"主の祈り" の下線部は doxology (頌栄) だという。doxology とは、礼拝が進行していく区切りで発せられる短い賛歌あるいは賛美の言葉のことだ。

ユダヤ教典礼で祈りの結びに自由な頌栄句が付くことから、キリスト教においてもその初期から doxology があった、という北村宗次の説を原が援用している。すると、"主の祈り" に doxology が付くのは当然で、写本によって書かれたり書かれなかったりしたということになる。

マタイによる福音書の成立と同時代のキリスト教文書『ディダケー (十二使徒の遺訓)』(古典ギリシャ語。Διδαχή=教え) の "主の祈り" には、次の doxology が付く。

ὅτι σοῦ ἐστιν ἡ δύναμις καὶ ἡ δόξα εἰς τοὺς αἰῶνας.
(筆者訳: なぜなら、力と栄光は、いつの時代もあなたのものだからです。)

この doxology は、"主の祈り" の下のほうの2行 (下線部) にはある「国」について述べない。そして、ὅτι="なぜなら~だからです" の構文で、「ちからと栄えとが限りなく神のもの」という我らの信仰自体を唯一の根拠に「(だから) 我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈っていることになる。

ちなみに、原によると、ルター (Martin Luther) も "主の祈り" の doxology について、

同様に、「栄光」、または名誉、賞賛も神ご自身のみのものであり、神を通して、または神による以外には、だれも知恵や聖さ、能力を誇ることはできない。 なぜなら、私が王や君侯を敬い、「恵み深い君主」と言い、彼らの前にひざまずいたとしても、それは彼ら個人のゆえではなく、神のゆえであり、神に代わってその権威の座にある人だからである。 また同様に、私が父母やその代理の人々に敬意を表すとしても、その人々にではなく神の職務に対して行うのであり、彼らにおいて神を敬うのである。

と述べたうえで、神のためにではなく自分のために支配し権力を行使し名誉を求めることを、悪魔と結びつけているという。

このように、"主の祈り" の doxology の部分は、人間が作った国家権力が神とともにない場合には抵抗すべきであるとも解釈できるので、安心した。

3) 原真和 (2012)『主の祈りに付加された頌栄の意味』聖和論集, 40, pp.63-68

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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで書いたエッセイです。東京・中野駅に近い、古民家があるバプテスト派の教会で、まだ洗礼を受けるでもなく教会員になるでもなく過ごした日々のあれこれや、キリスト教的な英語の話題をまとめました。よかったら買ってね☟。

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2023/11/08 黒絵 魚

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