東畑精一 (1899-1983、農業経済学者)
堀江恭一の借家人たち
1923年の関東大震災のあと、のどかな農村だった中野は都心からの避難者で人口が急増した。
旧中野村名主の子孫、堀江恭一は1918年から中野駅南に家屋敷を構えていたが、震災後に自宅のまわりの地所に貸家を増やした。これらは比較的豊かな人向けだったようだ。貸家のうちの一軒は、戦前の1941年まで官僚時代の岸信介が住んで、安倍晋三の母洋子が1928年に生まれ、帝大生時代の佐藤栄作が寄宿した。別の貸家には恭一の縁者で経団連会長を務めた石坂泰三が居住した。
現在の中野区産業振興センターには芸備銀行(広島銀行の前身)頭取だった塩川三四郎が借りた屋敷があり、その北側にあった、農業経済学者東畑精一の居宅も恭一の貸家だった注1)。
1) 青木恵一郎(1977)『農業風土人物誌 東京』同朋社
三木清獄死の報を受けて
哲学者三木清は、1929年に東畑の妹と結婚している。三木は、戦争末期に脱獄援助の疑いで逮捕勾留され、巣鴨の東京拘置所から豊多摩刑務所(中野駅の北。のちの中野刑務所)に移送された。身元引受人の東畑が一度の面会も許されないまま戦後を迎え、1945年9月26日、三木の獄死を知らされた。そのときの様子を東畑は次のように記している。
わたしがひとり住まいをしていた家の台所を朝早くたたく老人があった。中野駅で打とうとしたが宛名人がすく近くだから直接持っていけと云われたのでといって、刑務所からの一片の電文草稿をわたしに手渡した。⸺一切万端の終末であった。全くやつれ切ってしまった遺骸に接したのは数時間の後のことであった注2)。
2) 東畑精一(1968)「そとから見た三木さん」『三木清全集 第19巻 月報』岩波書店
その翌々日(28日)の夕方、東畑と、岩波書店編集部員だった布川角左衛門は、高円寺の三木の家の近くで荷車を借り刑務所に遺体を引き取りにいき、三木宅まで運んだ。
はじめてあのいかめしい門を入り、薄黒くよごれていた建物の前でしばらく待っていた時のこと、ついで棺に納められた三木さんをその荷車にのせ、すでに暗くなっていた中野の通りをひどくガラガラとひびく車の轍を気にしながら、お宅まで運んだ時のことなどは、いかに年月がたってもきわめて生々しい注3)。
3) 布川角左衛門(1967)「三木さんの思い出」『三木清全集 第8巻 月報』岩波書店
なお、当時収監中で戦後に衆議院議員となったのち共産党を除名された神山茂夫は、自著『愛する者へ:神山茂夫獄中記録』(飯塚書店, 1963)のなかで、三木の死について刑務所幹部に抗議したところ「三木の近親者に差しいれをするようにと連絡したが、だれもよりつかなかった」と答えた、と記した。面会が許されなかったとする東畑と言い分が食い違っているが、三木を死なせた側の言い訳を信じるのもどうかという気がする。
東畑精一の住居その後
一色次郎は『日本空襲記』(文和書房, 1972)の1945年8月4日の項で、その少し前に中野駅南の東畑の家に食糧問題の原稿を依頼にいった際のことを記した。東畑が「ぼくは戦争が終わったら、この焼けた日本中の住宅を再建するために何千万石の材木がはたして必要か、もうその計算をしているんだよ」と話し、戦争中からすでに終戦後のことを考えていたとしている。
中野駅南のこの一帯は、戦争中の行政による建物破壊も米軍の都市爆撃も免れた。
東畑は、三木獄死の報を受けた家に戦後まで住んだ。現在、東京都中野区中野2丁目の一角を占めるその場所には、マンションが建っている。
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少し昔の中野の歴史を調べている私たちのサークルで、2023年10月に中野駅南の中野区産業振興センターと中野バプテスト教会の土地の歴史を調べた150件超の資料と解説と、それをもとにして書いた小説をまとめ冊子にした。その中で堀江恭一の借家人たちについて数多くの資料を挙げ記述している。
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2023/11/3 黒絵 魚 記