三業地
待合茶屋及芸妓屋は、一定の指定地の外には許されない。待合茶屋及芸妓屋双方共免許される指定地もあれば、芸妓屋のみしか免許されない指定地もある。前者は所謂二業地であるが世間では、この二業に更に料理屋を加へて三業地と称してゐる。併し料理屋は指定地でなくとも許されるので、規定上からいへば三業地といふことは意味をなさない。
- 重田忠保(1934)『風俗警察の理論と実際』南郊社, p.133, 国立国会図書館デジタルアーカイブ
1924年11月、新井薬師(東京都中野区)の門前は、待合茶屋、芸妓屋の指定地となった。それぞれの免許範囲を、最新の東京都中野区のグーグルマップ上に朱色、青色で示す†。赤いピンは、後述する吉田屋の位置だ。
ちなみに、現在の中野区内としては、中野本郷(本町3丁目の神田川左岸)にも芸妓屋の指定地があった。1933年時点での花街の規模を表で示す(出典: 上掲書 p.138)。
指定地 | 待合茶屋 | 芸妓屋 | 芸妓 |
---|---|---|---|
新井 | 34戸 | 37戸 | 142人 |
中野本郷 | 指定なし | 19戸 | 45人 |
注† 吉田純子(1999)「新井の花柳界の展開」『中野区民俗調査第2次報告 新井・上高田』中野区立歴史民俗資料館, pp.39-45 所収の地図(pp.42-43: 富樫要吉(1953)『新井町南部住宅地図』, p.44: 中野区上高田地域センター編(1996)『かみたかだ時の流れ』)より作成
阿部定事件
阿部定が切り取って持ち去った局部は、新井のうなぎ割烹「吉田屋」の経営者石田吉蔵のものだった。
阿部定は、石田吉蔵を絞殺し局部を切り取る前は、芸者や娼婦などをしながら各地を転々としていたという。 1936年2月1日に吉田屋の住み込み女中として雇われ、4月23日朝に石田としめし合わせて家出し、その後は吉田屋に戻らぬまま、東京市荒川区尾久の待合茶屋で5月18日午前5時ごろ凶行に及んでいる。このあたりの経緯は、刑事裁判の判決書(国立国会図書館デジタルアーカイブ)に詳しい。
吉田屋
殺された石田吉蔵は、1922年に吉田屋を開業し、新井三業組合長を務めていた。
吉田屋は二階建てで、応接間と離れと少なくとも80人の宴会ができる座敷とがあった。当時の雇人は7名でそのうち5名が女中だった。立地は、三業地の免許範囲外、上のグーグルマップの赤いピンの位置だったが、芸妓を呼べたので事実上の待合茶屋であった。(参考: 『予審尋問調書』国立国会図書館デジタルアーカイブ)
付近は戦争で焼け、戦前の建物は残らなかった。戦後の法改正で、料理屋は割烹と、待合茶屋は料亭と名称が変わり、規制も厳しくなった新井の花街は、1981年ごろに自然消滅した。
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2024/5/27 黒絵 魚 記